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【山波抗争】山口組・弘道会VS波谷組!事件の経緯〜抗争終結まで/日本ヤクザ・暴力団(2022年11月更新)

概要【山波抗争】

山波抗争(やまなみこうそう)は、1990年6月28日から12月27日にかけて起こった五代目山口組波谷組との抗争事件。

山波抗争の発端

  • 事件の発端は、波谷組組員による安井武美という人物への組織勧誘・加入を巡るものであった。
    安井武美は、兄弟分である波谷組組員・岩田好晴(岩田好晴とも名乗った)から、半ば強制的に波谷組加入を強いられていた。
    それを不服に思った安井武美は、五代目山口組弘道会・西岡組の舎弟となった。
  • 1990年6月28日午前2時過ぎ、約束を反故にされた岩田好晴は、福岡県福岡市西区次郎丸の安井武美宅駐車場で襲撃、岩田好晴の若衆が胸や腹に6発の銃弾を撃ち込んだ。
    安井は救急病院に収容されたが、50分後に出血多量のため死亡した。

山波抗争勃発

  • 1990年6月28日夜、愛媛県宇和島市栄港町の波谷組・川田興業の事務所に銃弾5発が撃ち込まれ、川田興業幹部1人が重傷を負った。
  • 1990年6月29日、波谷組関係各所に銃弾が撃ち込まれる事件が相次いだ。
  • 同日午前7時45分頃、大阪府大阪市中央区東心斎橋2丁目の近鉄ビル4階B室にあった波谷組・三代目大日本正義団傘下水野組組事務所に銃弾3発が撃ち込まれた。
  • 同日朝、東大阪市横沼町の波谷組天野組(組長・天野洋志穂)傘下の枡田組事務所に銃弾1発が撃ち込まれたほか、同日には大阪市東淀川区にあった天野洋志穂の自宅にも、銃弾6発が撃ち込まれた。

一般男性誤射事件

  • 1990年6月29日午後9時ごろ、大阪市住之江区浜口で元NTT男性職員が自宅玄関先で、宅配便を装った2人組の山口組系組員1人によって、左足と左腕に1発ずつ銃撃を受ける事件が発生。元NTT男性職員は近くの病院に搬送されたが、出血多量のため死亡した。
    この男性一家は事件の13日前に同所に引っ越してきたばかりで、以前は波谷組幹部が住んでいて間違われて銃殺されてしまった。
  • 五代目山口組若頭・宅見勝は、山口組顧問弁護士を通じて大阪府警捜査四課と住之江警察署捜査本部に対し「死亡した男性の通夜に出席したいので、遺族に了解を取り付けてほしい」と申し入れたが、府警捜査四課と住之江警察署は申し入れを拒否した。
    申し入れを拒否された山口組側は顧問弁護士を通じ、死亡した男性の通夜や葬儀に独自で出席する道を模索した。

誤射事件後の抗争

  • 一般男性誤射事件後も、山口組による波谷組への襲撃は続いた。
  • 1990年6月29日未明、大阪市西成区にある波谷組と親しい金融業者の事務所に銃弾1発が撃ち込まれた。
  • 同日、大阪市北区長柄東の波谷組・平澤組(組長・平澤勇吉)幹部の自宅玄関ドアに銃弾5発が撃ち込まれた。
  • 同日、波谷組天野組・枡田組事務所にも再び銃弾が撃ち込まれた。
  • 同日、大阪市住之江区浜口の波谷組組員が出入りする喫茶店に、山口組系組員が店内で天井に向けて銃弾1発を発射する事件も発生した。
  • 1990年6月30日昼、大阪市北区長柄東の団地・さざなみプラザの路上で、波谷組・平沢組幹部が、追ってきた車から銃弾4発を撃ち込まれる事件が発生した。平沢組幹部は防弾チョッキを着ていて無事だった。
  • 同日、大阪府警は一般男性誤射事件など受けて、山口組総本部や宅見組、三代目山健組弘道会の3組織の事務所を殺人の疑いで家宅捜索した。
  • 同日午後3時、山口組は緊急幹部会を開き、波谷組との抗争や、一般男性誤射事件の善後策について協議するなど、一般男性誤射事件を重く見て事態の収拾に乗り出した。
  • 同日午後6時、山口組総本部は直系組長101人に宛てて「今回の不祥事による、犠牲者の冥福を祈るため、喪が明けるまで、全山口組傘下団体は、喜びごと行事を全面中止するように。右厳守して下さい」という文面のFAXが送られた。
  • 同日には、誤射され亡くなった元NTT男性職員の通夜が営まれ、通夜には山口組顧問弁護士が若頭・宅見勝の代理として訪れた。
    顧問弁護士は、1000万円の香典を置こうとしたが、男性遺族より受け取りを拒否された。
  • 一方で、同日には岡山県で波谷組が属していた西日本二十日会の会合が持たれ、会合では波谷組山口組の抗争についての討議がなされた。
  • 大阪府警は、波谷組組長・波谷守之の大阪市阿倍野区播磨町にある自宅兼事務所などに警察官を派遣し、貼り付け警備を行うなど、さらなる山口組からの襲撃に対する警戒を行った。
  • 1990年7月1日午後11時55分頃、波谷組・平沢組組員が、拳銃を持った男たちに拉致され、大阪府箕面市の山中に連れ込まれ、組長・平沢勇吉の行方を尋問された。平沢組組員は「知らない」と答えた。
  • 1990年7月2日午前1時頃、拉致された平沢組組員は箕面市で解放された。
  • 同日午前1時頃、大阪市東成区の地下鉄緑橋駅近くの喫茶店で、女性と食事中だった波谷組・平沢組幹部が拉致され、平沢組幹部はマンションに監禁され、平沢勇吉の行方を尋問されたが居場所は教えなかった。
  • 同日午後11時、大阪府高槻市の淀川右岸堤防で、拉致された平沢組幹部が、左足と右腕を1発ずつ拳銃で撃たれた。平沢組幹部は自力で路上に這い上がり、車で通行中の女性に発見され救急車で病院に搬送された。
  • 1990年7月3日、大阪市住吉区東粉浜の粉浜福祉会館で、誤射されて亡くなった元NTT男性職員の葬儀が行われた。
  • 同日未明、大阪市西成区の元波谷組大日本正義団組員の自宅に銃弾6発が撃ち込まれた。
  • 同日午後、山口組総本部は再びFAXで、直系組長に抗争中止を通達した。
  • 同日、大阪府警は63の警察署の刑事課長を集め、「山波抗争」に対する緊急対策会議を開き「暴力団を憎まない者がいるならば、さっさと刑事を辞めてもらいたい」と挨拶した。
  • 1990年7月4日、大阪府かどましでトラックが、平沢勇吉の知人女性が経営する会社販売会社に突入し、展示中の車1台破損させた。
  • 1990年7月5日、山口組定例組長会で、宅見勝は抗争中止命令に従わないことについて、直系組長101人を強く叱責し、改めて「傘下の者たちに抗争中止を徹底せよ」と指示した。
  • 同日、6月30日にさざなみプラザの路上で平沢組幹部を銃撃したとして、倉本組組員が警察に出頭し逮捕された。
  • 1990年7月6日朝、大阪府警捜査員800人は、宅見組英組倉本組一会などの63ヶ所の組事務所を家宅捜索した。
    宅見組の家宅捜索では、7月4日付の「山口組黒誠会幹部の息子で、波谷組・平沢組元組員を襲わないように」という旨のFAX着信の指示書と拳銃1丁を押収。宅見組事務所で組員15人を逮捕し、各組事務所から山口組の「菱の代紋」の入った看板や提灯を抗争用資材として押収した。
  • 1990年7月15日午前4時頃、男が東大阪市横沼町のマンション2階にある波谷組・天野組・枡田組事務所のベランダに、長さ4メートルの板を立てかけてよじ登り、枡田組事務所に向けて銃弾4発を撃ち込んだ。枡田組事務所には組員3人がいたが全員無事だった。
  • 1990年7月16日、大阪府警は「暴力団抗争事件等総合対策本部」を設置。
  • 同日夕方、大阪府63の警察署署長と大阪府警本部の部課長が、暴力団対策緊急署長会議を開き、大阪府警本部長は「暴力団と対決せよ」と厳命を下した。
  • 1990年12月3日午前4時40分頃、大阪市天王寺区のビル7階にあった波谷組・天野会組事務所に銃弾が撃ち込まれた。
  • 同日、午後1時20分頃、大阪市西成区で山口組系組員が、阪堺電鉄天王寺線の路面電車の中から、波谷組大日本正義団組事務所に、銃弾4発を撃ち込んだ。
    発砲した山口組系組員は、路面電車から飛び降りて足を骨折したが、山口組傘下大道会組員の車で逃走した。
  • 同日夜、大日本正義団組事務所に発砲した山口組系組員の逃走を助けたとして、山口組傘下大道会組員を逮捕し、その後、病院で大日本正義団組事務所に発砲した山口組系組員を逮捕した。
  • 1990年12月7日、波谷組組員・岩田好晴がロシアンルーレットにより拳銃で自分の頭を撃って死亡した。
  • 1990年12月11日、波谷組組長・波谷守之は、自宅に波谷組幹部を集め、四代目共政会会長・沖本勲に手打ちを依頼することと、波谷守之はヤクザからは引退しないが、他の者が波谷組から抜けることは自由であると伝えた。
    大日本正義団三代目会長・石川明は、波谷組から脱退し、大日本正義団を解散した。
    天野組組長・天野洋志穂も波谷組から脱退した。
  • その後、共政会会長・沖本勲と山口組若頭補佐・桑田兼吉が、波谷組の使者となり、山口組幹部会に「波谷はヤクザから引退しないが、若衆を手放す」という手打ちの条件を伝えた。弘道会会長・司忍はこれを了承し、山口組波谷組と手打ちすることを決定した。
  • 1990年12月24日、山口組総本部は、FAXで全国の直系組織に波谷組との抗争終結を伝えた。
  • 1990年12月27日、波谷守之が弘道会本部を訪れ、司忍波谷組組員・岩田好晴が弘道会・西岡組組員・安井武美を射殺したことを詫びた。
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