「ピス健」「二丁拳銃の健」「いけいけの健」と若い頃あだ名され、数々の山口組抗争史に名を残す三代目山口組若頭・山本健一。
「日本一の親分(ドン)」田岡一雄の「日本一の子分」を目指し、その後継者として山口組四代目を目前に他界した伝説の極道です。
この記事では、そんな山本健一さんの経歴、性格、晩年の様子などについて詳しく紹介していきます!
山本健一のプロフィール
- 1925年3月5日、兵庫県神戸市葺合区(現・中央区)で川崎重工の技師長の長男として生まれる。
- 1942年に大阪電気高校(現・清風高等学校)を卒業後、横須賀海軍工廠に勤めたが、招集され1945年に鳥取の部隊に入隊。
- 終戦後は神戸に戻ったものの、家族の消息も掴めず自暴自棄となった生活を送っていた。

伝説の組長【田岡一雄】武勇伝・エピソード・刺青まとめ/日本ヤクザ・暴力団(2023年2月更新)
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山健組を結成
- 1961年、山健組を結成。
- 1963年、田岡一雄の提案で設けられた執行部体制の下で若頭補佐役に就任。
- 1968年、一時若頭補佐から外れていたが、新体制で再び就任。
- 1971年、当時の山口組若頭・梶原清晴(梶原組組長)が大隈諸島の硫黄島で磯釣り中に溺死。
- 1971年9月、梶原清晴の後任として、山口組若頭に就任。当初山本健一は最高幹部間で行われた入れ札で、山広組組長・山本広に2対4で敗れたが、田岡一雄の指名により就任することとなった。
- 夜桜銀次事件や広島抗争など数々の抗争で功績を挙げたことにより、山健組の地位を不動のものとした。
- 1978年、保釈中でありながら「大阪戦争」の陣頭指揮を執り、抗争終結の記者会見を開くなどしたため、再び収監される。

【神戸山口組】来歴・系譜・施設・組織図まとめ/日本ヤクザ・暴力団(2023年2月更新)
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