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初代山健組組長【山本健一】武勇伝・エピソード・刺青情報まとめ/日本ヤクザ・暴力団(2022年11月更新)

「ピス健」「二丁拳銃の健」「いけいけの健」と若い頃あだ名され、数々の山口組抗争史に名を残す三代目山口組若頭・山本健一
「日本一の親分(ドン)」田岡一雄の「日本一の子分」を目指し、その後継者として山口組四代目を目前に他界した伝説の極道です。

この記事では、そんな山本健一さんの経歴、性格、晩年の様子などについて詳しく紹介していきます!

山本健一のプロフィール

  • 1925年3月5日、兵庫県神戸市葺合区(現・中央区)で川崎重工の技師長の長男として生まれる。
  • 1942年に大阪電気高校(現・清風高等学校)を卒業後、横須賀海軍工廠に勤めたが、招集され1945年に鳥取の部隊に入隊。
  • 終戦後は神戸に戻ったものの、家族の消息も掴めず自暴自棄となった生活を送っていた。

山本健一、山口組直参へ

  • 1951年頃、尾崎彰春と街を徘徊するうち、三代目山口組若頭を務めていた安原会会長・安原政雄と出会い、若衆となって山口組の傘下に入る。
  • 1953年、鶴田浩二襲撃事件に参加し、逮捕。懲役10ヶ月、執行猶予3年の有罪判決を受ける。
  • 1954年、梶原清晴らと共に地元の兵庫県神戸市に拠点を置く谷崎組を襲撃、谷崎組若頭・野沢修に重傷を負わせ、懲役3年の実刑判決を受けて服役。
  • 1957年、刑期を終えて出所後、山口組組長・田岡一雄から盃を受けて直参に昇格。
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山健組を結成

  • 1961年、山健組を結成。
  • 1963年、田岡一雄の提案で設けられた執行部体制の下で若頭補佐役に就任。
  • 1968年、一時若頭補佐から外れていたが、新体制で再び就任。
  • 1971年、当時の山口組若頭・梶原清晴(梶原組組長)が大隈諸島の硫黄島で磯釣り中に溺死。
  • 1971年9月、梶原清晴の後任として、山口組若頭に就任。当初山本健一は最高幹部間で行われた入れ札で、山広組組長・山本広に2対4で敗れたが、田岡一雄の指名により就任することとなった。
  • 夜桜銀次事件や広島抗争など数々の抗争で功績を挙げたことにより、山健組の地位を不動のものとした。
  • 1978年、保釈中でありながら「大阪戦争」の陣頭指揮を執り、抗争終結の記者会見を開くなどしたため、再び収監される。

山本健一の最期

  • 1981年7月23日、数々の功績から、山口組四代目を継ぐと目されていた中、田岡一雄三代目が逝去。
  • 1982年2月、田岡一雄の後を追うように山本健一も持病の肝臓疾患のため死去。享年56歳。
  • わずか1年足らずの間に組長と若頭を失った山口組は、次第に内部対立を深め、一和会分裂から山一抗争へと突き進んでいくこととなった。

山本健一のエピソード

日本一の子分になりたい

山本健一さんの性格がわかるエピソードを紹介します。

三代目山口組組長・田岡一雄からの寵愛を受けて、秘書兼ボディガードを任されるようになった山本健一は、「日本一の親分の下で日本一の子分になる」と言ってはばからず、高熱がある日も休まずに田岡一雄のボディガードを続けていたそうです。

神戸山口組組織図
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