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三代目山健組組長【山本広】武勇伝・エピソード・刺青情報まとめ/日本ヤクザ・暴力団(2023年2月更新)

元三代目山口組組長代行・山本広(通称:山広)といえば、山口組を脱退して一和会を結成し、「山一抗争」を巻き起こした張本人です。

この記事では、そんな山本広さんの経歴、性格、晩年の様子などについて詳しく紹介していきます!

山本広のプロフィール

  • 1925年2月15日に兵庫県洲本市にて半漁半農を営む出口家の生まれる。
  • 経済的に困窮していた出口家の三男という立場であった山本広は、2歳の時に姉の嫁ぎ先であった山本家に養子に出される。
  • 1942年、海軍へ徴兵され、南方方面を転線して海軍一等兵曹となる。

山口組との縁の始まり

  • 1947年、復員後、尼崎市の土建業・白石組(白石幸吉)の若衆となり、しばらく白石の下で土木業務や神戸港の港湾荷役作業などに従事し、次第に頭角を現し実績を上げていった。
  • 1956年、白石幸吉が三代目山口組組長・田岡一雄の舎弟であったことから、山口組本家の若衆として直参に昇格。
  • 1957年、山口組若頭補佐に就任。

山本広、山広組組長への経緯

  • 1959年、山本広は山広組を結成するにあたり、翌年1960年、一旦若頭補佐を退任。
  • 1961年、「明友会事件」に絡んで懲役2年の実刑で収監された。
  • 1964年、出所後に再び若頭補佐として山口組に復帰。
    組内では温厚な人物と評価されていた。
    山広組は最盛期には200人もの組員を抱え、主に金融や債権の取り立てをシノギとしていた。
  • 1971年、山口組若頭・梶原清晴(梶原組組長)の死を受けて行われた若頭選挙に立候補し、得票では勝利したが、田岡一雄の意向により断念。山健組組長・山本健一にその座を譲った。
    その後、菅谷政雄などの失脚により、若頭に次ぐ組内ナンバー3の地位に当たる筆頭若頭補佐に昇格。
  • 1981年7月23日に田岡一雄、1982年2月4日に山本健一が相次いで死去。
  • 1982年6月、山本広は組長代行に就任。
  • 1984年6月5日、山本広は組長に就任するつもりだったが、三代目の妻であった田岡文子の強い意向で若頭・竹中正久が四代目山口組に就任。
  • 1984年6月13日、これに反発する山広派は山口組を離脱し「一和会」を結成し山一抗争に突入となる。
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山一抗争から最期

  • 1984年7月10日山口組四代目継承式が執り行われた。
  • 一和会は当時優勢だったものの、山口組の切り崩しの前に次第に弱体化していくが、1984年9月には竹中正久暗殺部隊を結成。
  • 1985年1月、竹中正久に懲役6ヶ月の有罪判決が確定。
  • 1985年1月26日、一和会常任理事・悟道連合会会長・石川裕雄が指揮し、一和会系二代目山広組若頭・後藤栄治、同組行動隊長・長野修一、実行犯の同組員・長尾直美、田辺豊記、立花和夫により、収監前の竹中正久が襲撃された。
    神戸の山口組本部の上棟式後、大阪府吹田市のマンション「GSハイム第二江坂」の1階エレベーター前での銃撃だった。
  • 四代目山口組組長・竹中正久山口組若頭・豪友会・中山勝正、山口組組長秘書・南組組長・南力が銃撃され、中山勝正は4時間後に死亡、南力は即死、竹中正久は大阪警察病院で翌27日に死亡した。
    これにより抗争は激化し、結果として山一抗争では山口組側に死者8人・負傷者17人、一和会側に死者17人・負傷者49人を出した。一和会は山口組の攻勢の前に離脱者が相次ぎ、山本広もついに引退を決意。
  • 1989年3月19日、一和会を解散した。
  • 1989年3月30日、山本広自身が稲川会本部長・稲川裕紘に付き添われて山口組本家を訪れ謝罪。山一抗争は終結した。
  • 1993年8月27日、引退後は神戸で生活していたが、病気のため病院にて68歳で死去した。

山本広のエピソード

嫁や子供はいるの?

日本極道史に残る抗争の当事者だった山本広ですが、家庭では恐妻家であったと言われています。
その恐妻家ぶりはかなり徹底していたようで、山口組関連の宴会ですら夜10時になると切り上げて帰宅していたというエピソードや、知人の葬式に出席した帰りに女遊びをして一晩家を空けると、妻から部下たちに確認の電話が入るほどでした。
また、山本広の子供に関する情報は、カタギとして生きているためか一切表に出てきていません。

引退後の生活は?

山一抗争」終結後の山本広は、「山本広の命を取らなければケジメがついたと言えない」と和解に反対していた竹中組組長・竹中武(竹中正久の実弟)から命を狙われていたため、雲隠れする日々が続いたようです。

山本広の最期

引退後間もない頃から病に犯されていた山本広は、1993年8月27日に神戸市内の病院で満68歳でその生涯の幕を閉じました。
最期は「懲役から帰ってくる者たちのことが心配や。誰がどのように出迎えてやるのか、そのことだけが気がかりや。」何度も繰り返していたといいます。

また、山本広の遺言により、葬儀はひっそりと行われた。通夜には元一和会関係者20人ほどが集まったが、葬儀の参列者は親族や知人など78人で、元一和会幹部や山口組関係者の姿はなかった。

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