背景【山一抗争】
- 元来、神戸の比較的穏健な港湾博徒であった山口組は、戦後に三代目組長・田岡一雄によって全国に展開し、日本最大の指定暴力団に急成長した。
信望を一身に集めた田岡一雄の死により、時期組長の継承問題が発生した。直系組長たちは、それぞれ組長代行・山本広と、若頭・竹中正久の派閥に分裂した。 - 1984年6月5日午後3時、山口組直系組長会で竹中正久は、四代目組長就任の挨拶をした。
だが、この席上には山本広を支持する直系組長は出席せず、山本広ら約20人は大阪市東区の松美会事務所で在阪のマスコミ各社を呼んで記者会見を開き、竹中正久の四代目組長就任に反対した。
反竹中派の山口組直系組長は、翌日にも山菱の代紋を組事務所から外し、分裂は決定的となる。 - 1984年6月8日、兵庫県警と姫路警察署が、竹中組事務所への家宅捜索を行っている。
容疑は、1982年7月の竹中組と小西一家との喧嘩の際に使用された拳銃が竹中組事務所に隠されていることと、同年8月に竹中組組員がサイコロ賭博に加わったというものだった。 - 1984年6月13日、反竹中派(=山本派)が「一和会」を結成。
会長は山本広、副会長兼理事長に加茂田茂政が就任した。
この時すでに、小田秀組組長・小田秀臣や、福井組組長・福井英夫、弘田組組長・弘田武が一和会への参加を取りやめ、ヤクザから引退するなど発足直後の一和会にとって大きな痛手となった。 - 1984年6月21日、竹中正久は、田岡邸大広間で舎弟23人、若中46人と固めの盃を執り行った。
- 1984年6月23日、山口組執行部の陣容を整え、若頭・中山勝正(豪友会会長)、舎弟頭・中西一男(中西組組長)、筆頭若頭補佐兼本部長・岸本才三(岸本組組長)を据えた。若頭補佐には渡辺芳則(山健組二代目組長)、宅見勝(宅見組組長)、嘉陽宗輝(嘉陽組組長)、桂木正夫(一心会会長)、木村茂夫(角定一家総長)を起用した。
- 1984年7月10日、徳島県鳴門市の「観光ホテル鳴門」で山口組襲名式が執り行われた。
警察が襲名式会場の入り口にまで入り、中止勧告したが、無視して強行された。 - 1984年8月27日、NHK特集「山口組〜知られざる組織の内幕〜」が放送され、竹中正久ら山口組最高幹部、山本広、加茂田重政ら一和会幹部などへのインタビューと共に、民事介入暴力などの手口が取り上げられた。
この時点では中西一男は「抗争が起きるかは予測できない。双方ともケンカを欲してない」と述べ、インタビューに対し山本広は「山口組への対応を考える余裕もない。今は自分のところをまとめるのに一生懸命だ。」と語り、加茂田重政は「向こう(山口組)が来たらこちらもやる。ケンカはする、もし来たら。」語っていた。
抗争事件【山一抗争】
竹中正久組長殺害事件
- 1984年7月下旬、一和会・二代目山広組若頭・後藤栄治は、山広組舎弟・長野修一とともに山口組に対する行動隊を結成。
長野修一を行動隊長に据え、9月中旬には山広組から19人の隊員を選抜して行動隊の結成式を行った。 - 1984年10月、一和会常任理事・石川裕雄は、大阪府吹田市のマンション「GSハイム第二江坂」に竹中正久の愛人が住んでいることをつかんだ。
- 1984年12月初旬、石川裕雄は同マンションの204号室を知人名義で借りて潜入、見張り要因と交信できるように無線機を設置した。
- 1984年12月21日、長野修一も大阪市西区の「GSハイム西長堀」の302号室を借り、武器の隠し場所にした。
- 1985年1月12日、石川裕雄の報告を受けた後藤栄治は、長野修一を伊勢自動車道の津インターチェンジに呼び、共に吹田市の「GSハイム第二江坂」に向かった。
車中で後藤栄治は、25口径ベレッタ・25口径タイタン・32口径チーフスペシャルを長野修一に渡した。
その後、後藤栄治は長野修一と石川裕雄を引き合わせ、石川裕雄は長野修一に無線機の使い方を教える。 - 1985年1月16日、竹中正久は、中山勝正ら山口組最高幹部を連れて、伊丹空港から8時45分発日本航空911便に乗り、沖縄県入り。
那覇空港では三代目旭琉会会長・翁長良宏をはじめ、旭琉会の15の一家総長と幹部クラスの合計約60人から出迎えられ、沖縄観光がてら接待を受けた。 - 1985年1月17日、長野修一は、三重県の山中で二代目山広組組員・田辺豊記、山広組・広盛会舎弟頭・立花和夫、山広組組員・長尾直美とともに拳銃の試し撃ちを行った。
- 1985年1月18日、石川裕雄から32口径リボルバーを1丁受け取り、23日にも後藤栄治から32口径改造拳銃1丁を受け取った。
一和会側の作戦が着々と進行している中、1月9日には1980年3月上旬と中旬に、竹中組で開かれた賭博の罪で、竹中正久は懲役5ヶ月の最高裁判所の確定判決を受けていた。 - 1985年1月26日昼、竹中正久は、兵庫県神戸市灘区篠原本町で挙行された「山口組本部」上棟式に山口組幹部全員を伴い出席。
- 1985年1月26日21時15分過ぎ、竹中正久は中山勝正と山口組・南組組長・南力とともに「GSハイム第二江坂」に着いたところを、1階エレベーター前で田辺豊記・長尾直美・立花和夫によって銃撃された。
南力はその場で即死、中山勝正は救急車で病院に搬送されたものの、翌27日1時7分に死亡。
竹中正久は銃弾3発を受けたものの自力で車に乗り込み、運転手の南組組員に大阪市南区の南組事務所に向かわせた。
南組事務所から、手配していた救急車で大阪警察病院に搬送された。
竹中正久は9時間にも及ぶ手術を受けたものの、27日23時25分に死亡。 - 1985年1月27日夜、竹中正久の仮通夜が兵庫県神戸市灘区の旧田岡邸で行われた。
- 1985年1月31日、竹中家としての竹中正久の密葬が行われた。
山口組側からの報復
- 1985年2月5日、組長と若頭を一挙に失った山口組は直系組長会を開催し、舎弟頭・中西一男が四代目山口組組長代行に、若頭補佐・渡辺芳則(山健組組長)が若頭に就任。
山口組本部長・岸本才三は組方針を「不言実行、信賞必罰」と宣言。 - 1985年2月19日、直ぐに報復は始まり山口組・弘道会・菱心会組員が、一和会・後藤組若頭・吉田清澄を拉致し、竹中正久殺害を指揮した後藤栄治の居場所を吐かせるために暴行を加えた。これに対し後藤栄治は、配下組員に後藤組の解散届を三重県警津警察署に届けさせ、速達で山口組本部に「詫び状」を送付。
「自分が自首する代わりに、弘道会・菱心会組員に拉致された吉田清澄を解放してほしい」旨を訴えた。 - 1985年2月23日、高知市の高知競輪場で山口組・豪友会組員が、一和会・中井組(中井啓一組長)組員3人を襲撃。2人を射殺し、1人に重傷を負わせた。
- 1985年3月5日、大阪市西成区の一和会・溝橋組事務所で、溝橋組幹部・大岩正博が突然の訪問者に背中を撃たれて死亡。
- 1985年3月17日午後8時過ぎ、一和会・中井組・弘田組舎弟・竹中幸雄らが、山口組・豪友会・岸本組事務所に侵入し、仮眠中だった豪友会組員・吉門正光を拳銃で銃撃、吉門正光は5日後に死亡。
- 1985年3月24日、大阪市の一和会・徳山組・徳心会組員が、事務所前で足を2発銃撃され全治3週間の怪我。阪神甲子園球場の駐車場で、竹中組組員が、堅気の露天商をしていた一和会特別相談役・大川覚の長男を襲撃している。
- 1985年4月4日、山口組・豪友会・岸本組幹部・谷脇修は、一和会・中井組事務所宛の宅配便配達員とともに中井組事務所に向かった。
配達員に呼び鈴を押させ、中井組事務所のドアが開いたところへ、谷脇修は一和会・中井組組員・門屋義之を射殺、他の中井組組員にも重傷を負わせた。 - 1985年4月12日、山口組・弘道会・薗田組幹部ら3人が名古屋市のレストランで、三重県四日市市の一和会・水谷一家・隅田組幹部・中本昭七と、隅田組組員・島上豊を拉致。
3人は警察に電話をして「水谷一家が一時間以内に解散届を出すのならば、中本昭七と島上豊を解放する」と伝えたが、水谷一家が解散を拒否したため、翌13日に中本昭七を射殺、島上豊に重傷を負わせた。 - 1985年4月14日、一和会定例会からの帰途、一和会副幹事長・吉田好延が国鉄三ノ宮駅前の交差点で停車中に、山口組・後藤組幹部・佐藤明義な38口径の拳銃で4発の銃撃を受けた。
吉田好延は無事だったものの、同乗していた組員2人が窓ガラスの破片で負傷。 - 1985年5月11日、三重県四日市市内の一和会・水谷一家・宮本一利總長宅に銃弾7発が撃ち込まれる。山口組からは山本広会長宅に、後藤組組員が大型ダンプカーで突っ込み、警備の機動隊と銃撃戦が行われた。
稲川会と会津小鉄会による仲裁と抗争終結
- 1986年2月14日、ホテルニューオータニで、関東二十日会と関東神農同志会の合同食事会が開催された。
合同食事会前の挨拶で、住吉連合副会長・西口茂男は、「稲川会総裁・稲川聖城が山口組と一和会の手打ちのために努力している」と語った。1985年3月24日に一和会特別相談役・大川覚の長男が、竹中組組員に襲撃されて重傷を負ったが、長男は一和会とは無関係だったものの的屋だったことから、その煽りを食らって全国の主要な祭礼から的屋が締め出しを受け死活問題になっていた。
合同食事会が終わった後、稲川聖城は会津小鉄会総裁代行・高山登久太郎、倭奈良組組長・橋本正男らと山一抗争の終結について話し合った。 - 1986年2月、稲川聖城と二代目会長・石井隆匡が病気療養中の田岡文子を見舞い、次いで山口組幹部と会って一和会との和解を打診。稲川会からの打診に対し、中西一男や渡辺芳則らは「昭和61年(1986年)3月13日までに、山口組内を和解の方向でまとめる」と回答した。
中西一男は、服役中の二代目豪友会会長・岡崎文夫と岡山刑務所に拘置中の竹中武を説得。
岡崎文夫は終結を了承したものの、竹中武は一和会との和解を拒否した。 - 1986年6月5日、石井隆匡が中西一男ら山口組幹部と会い、再度一和会との和解を要請した。
- 1986年6月15日、山口組臨時直系組長会が開かれ、中西一男は山一抗争の終結を受け入れる意向を示した。
- 1987年2月4日、山口組直系組長会が開かれ、山一抗争終結への意向を示した山口組幹部に対し、竹中武は直系組長会での採決を逆提案したが、提案は黙殺された。
- 1987年2月8日、山口組本家2階大広間で開かれた緊急山口組直系組長会にて、中西一男は山一抗争終結の決定を指示した。
- 1987年2月9日、中西一男ら山口組幹部は上京し、石井隆匡に抗争終結決定を連絡。
- 1987年2月10日、石井隆匡は京都の高山登久太郎を訪問し、高山登久太郎通じて山本広ら一和会直系組長34人に山口組の抗争終結決定を伝えた。山本広も一和会の山一抗争終結決定を高山登久太郎に伝え、とりあえず抗争は終結した。
山一抗争終結後
- 稲川会の仲裁によってとりあえず表面上は抗争終結となったが、終結に動いた渡辺芳則・中西一男・岸本才三ら山口組執行部と、あくまで抗争継続の構えを見せた竹中武は対立していた。
山口組が抗争終結を決定した直後には、竹中武が山口組からの竹中組離脱の構えを見せたが、山口組側からの慰留で結局中止した。 - 1988年5月14日、竹中組・安東会会長・安東美樹が山本広宅にロケットランチャーを打ち込むなどの襲撃をし、警備の警察官3人が巻き込まれて負傷。
山口組側は岸本才三自ら「襲撃犯が自分の組内にいるならば警察に自首させ、今後警察官や市民を銃撃したものは処分する」ことを直系組長に通達させている。 - 一連の襲撃について渡辺芳則は、「シャブ打ってやったとしか思われない。プラスになることは一つもない」と安東美樹を非難している。
竹中武は、「渡辺芳則が山口組五代目では、強い山口組にはなれない」と発言し、これら竹中組を中心とした抗争継続はその後の山竹抗争の要因となってくる。 - 安東美樹は竹中組を脱退し、山口組・一心会・川崎組に移籍。
- 1988年10月、その後も一和会には山口組からの硬軟両面の締め付けが続き、最高幹部・加茂田茂政や松本勝美など、組の解散・ヤクザからの引退に追い込まれ、構成員数200名にまで衰退。
- 1989年3月19日、山本広が神戸市の東灘警察署に出頭、自身のヤクザからの引退と一和会の解散を表明し、一和会は消滅した。
- 1990年9月12日、大阪市北区西天満1丁目の中華料理店で安東美樹は逮捕された。
- 1986年7月12日、四代目山口組組長・竹中正久の暗殺を指揮した石川裕雄は、福岡県福岡市のゴルフ場で逮捕された。
一審で大阪地方検察庁は死刑を求刑。1987年3月14日、大阪地方裁判所より無期懲役の判決が下りて、大阪高等検察庁が控訴。
1989年3月20日、大阪高等裁判所により、大阪高検の控訴が棄却されて双方上告しなかったことから、無期懲役の判決が確定した。
石川裕雄は2022年現在、旭川刑務所に服役しており、仮釈放申請を拒否している。 - 石川裕雄の指揮により、竹中正久暗殺を指示した後藤栄治は2022年現在も消息不明となっている。
- 竹中正久暗殺の実行犯隊長・長野修一は、事件直後に瀕死の竹中正久を乗せた車に轢かれ、そのまま逮捕された。
2022年10月現在、熊本刑務所に収監されている。

【一和会】来歴・系譜・施設・組織図まとめ/日本ヤクザ・暴力団(2023年2月更新)
概要【一和会】
一和会(いちわかい)は兵庫県神戸市中央区北長狭通3-2-3ニューグランドビル2Fに本部を置き、兵庫県神戸市東灘...