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五代目山口組組長【渡辺芳則】武勇伝・エピソード・指詰め情報まとめ/日本ヤクザ・暴力団(2022年11月更新)

渡辺芳則(わたなべよしのり)といえば、日本最大の暴力団「山口組」の五代目組長にまで上り詰めたにも関わらず、不遇の晩年だったと言われています。

この記事では、渡辺芳則さんの人柄やエピソードについて詳しく紹介していきます!

渡辺芳則のプロフィール

  • 1941年1月8日、栃木県下都賀郡壬生町の農家の家に生まれる。渡辺家は広大な土地を所有しており、農家のみならず土地を売却することで不動産賃貸業を営むなどで資産を増やし、渡辺芳則本人は生活に不自由することは無かったとしている。
  • 1956年春、中学校を卒業するが、高校へは進学せずにしばらく地元で過ごし、翌年に上京して台東区浅草の日本蕎麦屋で住み込みで働くようになる。

渡辺芳則と山口組の縁の始まり

  • 浅草時代は蕎麦屋で働く一方で愚連隊を率いており、1958年には浅草を地盤とする全日本飯島連合会系のテキ屋稼業を手伝い、本格的にヤクザと関わりを持つようになる。
  • 1961年、賭場に出入りするうちに三代目山口組山健組若衆・三輪正太郎と知り合い、栃木・京都を経て神戸市に移り住む。
  • 1963年、22歳で山健組組長・山本健一から盃を受け正式に山健組の組員となる。

渡辺芳則、山口組五代目組長への経緯

  • 1982年2月4日、山口組三代目・田岡一雄の跡を継いで、四代目を継承すると見られていた山本健一若頭が急死。渡辺芳則山健組の二代目を継承。
  • 1982年6月、三代目山口組若中に昇格。
  • 1984年6月、竹中正久を組長とする四代目山口組発足に伴い、若頭補佐に昇格。跡目問題に反発した山広派は山口組を脱退、「一和会」を結成し山一抗争へと発展。
  • 1985年1月、竹中正久四代目と、若頭の中山勝正(豪友会会長)が一和会・二代目山広組系組員に暗殺される。
    同年2月、暫定執行部体制で山口組若頭に就任。
  • 1989年3月、山一抗争が終結。
  • 1989年4月16日、山口組舎弟会で、渡辺芳則を五代目山口組組長に推すことが決定。
    同年4月27日、五代目山口組組長に就任。
    同年7月21日、五代目継承盃を挙行する。組長在任中は、若頭・宅見勝らの方針もあり、警察との対立を避け、ブロック制導入などの組織の合理化・統制化を勧め、拡大路線を推進し続けた。

渡辺芳則の引退から最期

  • 2004年11月、山口組傘下組員が起こした不法行為に対する使用者責任を認定した最高裁判決を受けると、長期静養を宣言して組の運営を執行部に委譲。
  • 2005年、体調不良により引退。
  • 2012年12月1日、兵庫県神戸市中央区の自宅で死去。享年71歳。晩年は認知症を発症していた。
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渡辺芳則のエピソード

阪神淡路大震災の救援活動を指揮

1995年に起こった阪神淡路大震災。

当時の山口組は神戸に総本部があったため、渡辺芳則氏も被災しましたにもかかわらず、山口組のトップとして救援活動の指揮を自ら執りました。山口組の救援活動は、総本部駐車場の一角にある井戸水を近所に配ることから始まり、傘下組織に救援物資の調達指令も出し、日本全土からトラック・ヘリコプター・大型クルーザーなどあらゆる手段で救援物資が昼夜を問わず総本部に届けられました。

渡辺芳則自身も、野球帽・ジャンパー・ニッカポッカ姿で自身がバイクを走らせて救援活動を行なっていたといいます。

山口組総本部が直接扱った物資だけで、金額に換算すると11億円以上になるそうです。

合理主義者で無駄なことはしない

渡辺芳則氏は、暴行や傷害などのエピソードはあまり聞き及びません。

懲役も数年程度で、大切なのは懲役の期間よりも内容だと言っていたそうです。

抗争事件で体を賭けた懲役は、功績として認められるが、自分で覚醒剤をやっての懲役は認められない、という冷静で現実的な考えの持ち主でした。

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