司忍といえば、日本最大の暴力団「山口組」の六代目組長であり、伝説の親分でもあります。
この記事では、伝説の組長・司忍さんについて詳しく紹介していきます!
司忍のプロフィール
- 1942年1月25日、大分県大分市に生まれる。
- 大分県立水産高等学校(現・大分県立海洋科学高等学校)を卒業後、地元の大手水産会社に就職するが、すぐに退職。
- その後、大阪を経て名古屋に入り、20歳の頃に極道の道に入る。
山口組との縁の始まり
- 1962年、三代目山口組系鈴木組傘下の弘田組組員となる。武闘派として知られ、後に弘田組最高幹部を務め、自らの組織として司興業を旗揚げした。弘田組副組長や若頭を歴任、抗争でも陣頭指揮を執っていた。
- 1981年7月23日、三代目山口組組長・田岡一雄が死去。弘田組組長・弘田武志は、田岡一雄の後継者とされる山本健一と関係が近く、山本健一が四代目を継承すれば山口組に参加するはずであった。
- 1982年2月4日、山本健一が病死。
- 1984年、四代目山口組組長の座を巡り、竹中正久と山本広が対立。弘田武志は山本広支持を表明した。
司忍は弘田武志を説得し、弘田武志は一和会にも四代目山口組にも参加せずに引退を決意。
後日、弘田武志は引退報告と、司忍に盃を下ろすよう四代目・竹中正久に申し出、竹中正久はこれを了承した。
司忍、山口組六代目組長への経緯
- 1984年6月、弘田組の地盤を引き継ぎ「弘道会」を結成、四代目山口組直参に昇格。元親分の弘田武志の一字と、その道を行く「道」の字から「弘道会」と命名したとされる。
- 1989年5月、五代目山口組体制の発足に伴い若頭補佐に就任、ブロック制が導入されてからは中部ブロック長を兼任。
- 1997年8月28日、護衛の配下組員に拳銃持たせていたとする銃刀法違反で同年11月に指名手配を受け、翌年6月に逮捕・起訴された。
- 1999年7月、司忍は保釈金10億円で保釈。
- 2001年3月、大阪地方裁判所で無罪判決を受けたものの検察側が控訴。
- 2004年2月24日、大阪高等裁判所で懲役6年の逆転有罪判決を受け、上告。高裁判決後に収監されたが、10億円の保釈金で即日保釈された。
- 2005年3月、弘道会の二代目を若頭・髙山清司に譲り、司忍は弘道会総裁に就任、同時に「弘田組」組長を名乗る。
- 2005年5月、五代目山口組若頭に就任。
- 2005年7月、六代目山口組組長に就任。

司忍のエピソード
司忍って本名?
結論から言うと、司忍という名前は本名ではありません。
本名は篠田健市ということがわかっており、司忍という名前は博徒の世界の渡世名ということです。
博徒の世界の渡世名は何かしら本名と関係していたり、生い立ちに関係していたりということがありますが、司忍の渡世名は生い立ちが関係していると言われています。
司忍には篠田司という名前の弟がいたのですが、その弟は子供の頃に病気で亡くなったと言われています。
その弟を忍んで名前を付けたということから、司忍という渡世名になったそうです。
小指がない!?エンコ詰めの真相

司忍さんの写真を見ると左手小指の第一関節より上が欠損していることがわかります。
この「エンコ詰め」の真相は髙山清司が寝ている間に司忍がいたずらで右目のまぶたに瞬間接着剤を塗ったそう。
これを髙山がはがそうとする際、誤って神経を傷つけてしまい、瞼を開けることが出来なくなったそうです。
この右目事件をきっかけに、司忍は弟分に可哀想なことをしてしまったとショックを受け、ヤクザでよく見られる「エンコ詰め」を決行したそうです。
アメリカで資産凍結!?
司忍さんは2012年にアメリカ大統領府の発令により、アメリカ国内にあった資産を凍結されました。国外犯罪組織とその支持者であるという理由からで、米国司法権の及ぶ範囲において資産の凍結と、米国民との取引を禁止される制裁を課され、全米では「シノブ・ツカサ」の名前で“ジャパニーズ・ゴッドファーザー”として注目を集めました。
