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伝説の組長【田岡一雄】武勇伝・エピソード・刺青まとめ/日本ヤクザ・暴力団(2022年10月更新)

田岡一雄といえば、日本最大の暴力団「山口組」の三代目組長であり、伝説の親分でもあります。

山口組を日本を代表する暴力団にしたのは、何を隠そうこの田岡一雄であり、彼にはさまざまな武勇伝が残されています。

この記事では、伝説の組長・田岡一雄氏について詳しく紹介していきます!

田岡一雄のプロフィール

  • 1913年3月28日、徳島県東みよし町の貧しい小作農の五番目の子供(次男)として生まれる。
  • 誕生前に父親が病没し、母親も小学1年生の時に過労死してしまったため、兄弟から離れて兵庫県神戸市に住む叔父の家で育つこととなる。
  • 「カネボウ」の荷役現場監督をしていたという叔父一家でしたが、貰い子の田岡一雄はかなり冷遇され、酒に酔った叔父に暴力を振るわれる毎日を過ごす。

山口組との縁の始まり

  • 尋常高等小学校高等科(現在の中学相当)を卒業した田岡一雄は、地元の川崎造船所に就職するが、入社3年目に上司を殴って退職する。
  • その後、あてもなく神戸の繁華街を歩いている際、小学校の同級生だった二代目山口組組長・山口登の実弟と再会を果たす。この偶然をきっかけにして、田岡一雄と山口組の縁が始まった。
  • 博打修行に精を出すかたわら、毎日のように喧嘩を繰り返していた田岡三代目は、あるとき柔道の猛者に路上で因縁をつけられた。その際とっさに突き出した指が相手の目に入って見事に勝利を収めたという。その後、神戸の不良たちを相手に目つぶし攻撃を重ね、見事に連戦連勝したとされる。

田岡一雄の伝説的な武勇伝

田岡一雄が伝説の組長と言われる所以はどこにあるのでしょうか?

彼が山口組在籍中に残した数々の武勇伝やエピソードを紹介します。

1万人の巨大組織を作り上げたカリスマ性

田岡一雄の最大の武勇伝といえば、神戸のローカル組織であった山口組を日本最大規模の暴力団組織にまで育て上げたカリスマ性にあると言っても過言ではないでしょう。

田岡一雄が三代目山口組組長を襲名したのは1946年のことです。
警視庁の公表データによれば、現在の山口組の構成員数は推定でおよそ12,000人ほどで、これは日本最大の規模となっています。

しかし、田岡一雄が三代目を襲名した当時はわずか30人程度の組織だったのです。
この弱小団体が田岡一雄の三代目体制発足からわずか20年ほどで構成員数1万人以上を抱える巨大組織になっていきました。

警察当局におけるいわゆる「第一次頂上作戦」のさなかで直系組長らの脱退と直系組織の解散が相次ぐに至り、一時期弱体化するも、勢力の回復を経て、田岡の死去の前年にあたる1980年までに、2府3県に559団体、1万1800人余の総勢を擁する組織に成長。
そうした三代目体制期を築いた田岡は山口組の中興の祖として記憶されるに至りました。

暴力だけではなく、高収益体制の組織へ

田岡一雄がここまで語り継がれている理由のひとつに、ビジネスとヤクザを結び付けたことが挙げられます。

それまでのヤクザといえば、土地代などによるみかじめ料が主なシノギになっていましたが、田岡一雄は芸能界に目を付けます。

そして彼が設立した神戸芸能社は莫大な収益をもたらす企業となる、山口組発展の大きな礎となりました。

それまで博打の世界で生きていくのが一般的であったヤクザの世界で、組員に賭け事の寺銭ではなく「正業」を持つことをすすめ、合法事業を営ませたことが発展の大きな理由である。
中でも、組内の組織改革は大きな改革であった。警察の取り締まりや景気の動向に左右されやすいヤクザ社会において、資金源の確立を絶対とした。
このため、舎弟や組員の一部を「堅気」の法人団体の長として、一切の組員を持たせず渡世との交渉をさせなかった。こうして組の計画性と安定をもたらした点は、その後の活動の大きな布石となった。
その結果、1950年代から60年代にかけて傘下の団体が全国へ進出、各地で抗争事件を引き起こすなど、世間の恐怖と批判を招いた。

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刺青は?

  • 「ヤクザ=刺青」というイメージがありますが、伝説のヤクザである田岡一雄は刺青を入れていなかったと言われています。
  • 田岡一雄自身も「若いころは金がなくて入れられなかった。金ができてからはどうでもよくなった。」と語っていたそうです。

エピソード

このような田岡一雄の暴力性は二代・山口昇の目には好意的に映ったようで、1936年に正式に親子盃を下されています。田岡一雄はその時24歳で、最年少直参の誕生でした。

強い暴力信奉者であり、「山口組は他の暴力団よりも強くなければならない」という信念を持っていた。暴力団抗争では、逮捕者の弁護士代、服役者の留守家族の生活費の面倒、抗争用の武器の調達費用など多額の経費がかかる。このため、経済的に見れば、暴力団抗争は割に合わない。しかし田岡一雄は、暴力団抗争を繰り返すことにより、山口組を強い暴力団組織だと印象付けた。これにより、結果的にシノギが他の暴力団組織よりも有利に働いていった。

神戸水上警察署の一日署長をした経験もあり、自伝によると警察との蜜月時代もあったとされる。青田昇の著書によれば田岡はプロ野球ファンであり、戦後の混乱期は地回りの興業組織の機嫌を伺わなければ試合が開催されずに嫌がらせを受けていたが、山口組の全国進出以後は、野球は国民的娯楽だからとそのような慣習なしでも開催できるよう取り計らいをしたという。

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