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【菅谷組】来歴・系譜・施設・組織図まとめ/日本ヤクザ・暴力団(2023年10月更新)

概要【菅谷組】

菅谷組(すがたにぐみ)は兵庫県に本部を置いた暴力団。菅谷政雄は元・三代目山口組若頭補佐。前身は国際ギャング団

代紋

来歴【菅谷組】

  • 菅谷政雄が神戸三宮を中心に愚連隊を結成。
    菅谷政雄自身は「ボス」または「ボンノ」と呼ばれ、資金源は主に、米軍の軍用運搬車を計画的に襲撃し、生活資源を強奪。時には米軍相手に銃撃戦も交じえて逃走、強奪した生活資源を民間人に販売、拳銃や機関銃、大型銃火器の武器などは大量に保管していた。
    後に数年の歳月をかけて警察に逮捕されたが、逮捕された容疑者に朝鮮人、中国人、台湾人が多数在籍していたため、新聞各社紙上で「国際ギャング団」と名付けられ、後には映画化もされた。
  • 1959年11月、菅谷政雄が三代目山口組組長・田岡一雄から若衆の盃を受け、間もなく「菅谷組」を結成。
    長期服役を務めた菅谷政雄は40歳代になっていた。
  • 菅谷政雄は川口義昌(二代目小車誠会本家会長)を舎弟にした。
  • 1961年から1964年頃にかけて、菅谷組は神戸、大阪、和歌山、福井、石川、福島、愛媛、福岡、熊本に進出し、最盛期には構成員1200〜1500人を擁した。
  • 1963年、菅谷政雄は三代目山口組若頭補佐に就任。
  • 1977年4月13日、菅谷組組長・菅谷政雄に何ら相談や承諾承認のないまま、三代目山口組直参を目論んだ、菅谷組舎弟・川内組組長・川内弘を菅谷組のヒットマンが射殺した。
    当時の川内組は、全国14県に支部を置き、400名の組員を擁し、川内弘は「北陸の帝王」と呼ばれていた。
    川内弘は山口組本家直参を意識し、菅谷政雄とは反目し合うようになり、無断で山口組本家直参昇格の要望を求めたが、後に無断要望を知った菅谷政雄は烈火の如く怒り、これを認めなかった。
  • 同年、この菅谷組が起こした破門者殺害という事件が原因となり、菅谷組は三代目山口組から絶縁処分となり脱退。独立団体として活動した。
  • 1981年、解散。

組織図【菅谷組】

  • 組長:菅谷政雄

菅谷組系組織

後藤忠政

  • 六代目山口組舎弟・後藤組組長。
  • 菅谷組・川内組若頭補佐から六代目山口組舎弟にまで上り詰めた人物。戦闘力と経済力においては当時の菅谷組を思い起こさせる組織力があった。
  • 2002年7月、五代目山口組若頭補佐に就任。
  • 2005年8月、六代目山口組発足に伴い、山口組舎弟に直った。
  • 2008年10月、病気を理由に山口組本部の定例会を欠席し、自身の誕生日を祝って芸能人が多数参加したゴルフコンペを開いたことが問題視され、六代目山口組から除籍処分を受け、引退。

根本辰男

  • 六代目山口組・二代目川内組組長。
  • 初代組長・川内弘は、菅谷組舎弟から山口組直系に上がろうと画策し、菅谷政雄との関係も悪化し、破門にされた。
    その後、川内弘は菅谷組の刺客により射殺された。
    この菅谷組が起こした破門者を殺害するという事件が原因となり、菅谷組は三代目山口組から絶縁された。
  • 二代目川内組を継いだ根本辰男は、二代目山健組を経て、五代目山口組直参に昇格。
  • 2014年7月、六代目山口組から破門処分となる。

浅野二郎

  • 浅野組組長
  • 菅谷組随一の実力者と言われ、菅谷政雄からの信頼も厚く、菅谷組では舎弟頭を務めた。菅谷政雄の絶縁後も行動を共にし、その後は一和会の事務局長として参画。
  • 山一抗争後は、五代目山口組系安達組の相談役に就任。

岡本雅博

  • 初代松山会会長。菅谷組若頭補佐を務めていた。
  • 菅谷組解散後は、独立組織として愛媛県の暴力団、岡本会、兵頭会、伊藤会、石鉄会、大西組が団結して「松山連合会」を結成。
  • 1990年3月、五代目山口組に加入。松山連合会は組織名称を「松山会」に改称。

川口義昌

  • 二代目小車誠会会長。
  • 菅谷政雄の舎弟。
  • 菅谷組の解散後は独立組織として活動。
  • 関西一のテキ屋組織として活動していたが、五代目山口組に直参として復帰。

佐藤邦彦

  • 佐藤組組長。
  • 菅谷組の若頭補佐を務めていた。
  • 菅谷組の解散後、初代竹中組組長・竹中正久の舎弟となり、四代目山口組で直参に昇格。
  • 細見孝夫が佐藤組の二代目を継承。
  • 2010年5月、細見孝夫は六代目山口組を除籍、佐藤組は解散した。

須藤潤

  • 須藤組組長。
  • 菅谷組若頭補佐を務めていた。
  • 菅谷組解散後、初代竹中組組長・竹中正久の舎弟となり、四代目山口組で直参に昇格。
  • 2006年に引退、須藤組は解散した。

大原宏延

  • 大原組組長。
  • 菅谷組解散時は、菅谷政雄の若中だった。
  • 菅谷組解散後、初代宅見組に参画。宅見組舎弟頭を経て五代目山口組直参に昇格。
  • 六代目山口組では総本部長を務めた。

奥浦清司

  • 奥浦組組長。
  • 菅谷組解散時は、菅谷政雄の若中だった。
  • 菅谷組解散後、三代目山口組・長谷組に参画。長谷組舎弟頭を経て五代目山口組直参に昇格。

天野洋志穂

  • 天野組組長。菅谷政雄の護衛・運転手を務めていた。
  • 菅谷組解散後は、菅谷政雄の舎弟だった波谷守之が波谷組として独立、波谷組舎弟となった。
  • 山波抗争の終結条件として、波谷守之が若衆を手放す事になり、宅見組に移籍。宅見組副組長を務めていた。
  • 初代組長・宅見勝の死去後、二代目宅見組には参画せず、天野組として五代目山口組直参に昇格。
  • 2008年、六代目山口組から除籍処分を受け引退、天野組は解散した。

井奥文夫

  • 井奥組組長。
  • 菅谷組・菅原組傘下として活動していた。
  • 菅谷組解散後、当時は山健組傘下であった中野会に移籍。中野会会長代行を経て、五代目山口組直参に昇格。
  • 2008年10月、後藤組の処分問題に連座して、六代目山口組から絶縁処分を受け、井奥組は解散。

生島仁吉

  • 生島組組長。
  • 実兄である菅谷組若頭補佐・生島久治の後を引き受け生島組を発足。
  • 菅谷組解散後は、竹中組へ移籍していたが、山一抗争後、竹中武が山口組からの脱退を表明。
    生島仁吉は竹中組を脱退し、山健組に参画。
  • 山一抗争時には、生島組の者が一和会幹部・中川連合会会長・中川宣治を射殺している。
    一和会の幹部クラスの殺害に成功したのは津山の杉本組と生島組だけである。

波谷守之

  • 波谷組組長。
  • 賭場での波谷守之の所作に惚れ込んだ菅谷政雄に請われ、舎弟となった。
  • 菅谷組解散後、独立組織として活動。後に西日本二十日会に加盟していた。
  • 1990年、五代目山口組弘道会との山波抗争が勃発。抗争終結時の条件として波谷組の若衆を全員手放したが、終生、山口組に復帰することなく独立を貫いた。
  • 1994年、自宅で拳銃自殺。
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