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【大阪戦争】ジュテーム事件・日本橋事件・ベラミ事件の経緯/日本ヤクザ・暴力団(2023年2月更新)

概要【大阪戦争】

大阪戦争(おおさかせんそう)は、1975年7月26日から1978年11月1日にかけて大阪府周辺で起きた三代目山口組と二代目松田組との抗争事件。

ジュテーム事件

  • 1950年代後半以降、小松島抗争、明友会事件、夜桜銀次事件などの抗争を通して神戸から日本全国に侵攻した三代目山口組を支えていた組織力と経済力は、警察の「第一次頂上作戦」によって大きな打撃を受けていた。
  • 1975年7月26日深夜、豊中市の喫茶店「ジュテーム」において松田組系溝口組組員らが先にいた溝口組幹部と面談中の山口組系佐々木組組員3人を射殺、1人に重傷を負わせた。
    この事件の背景には佐々木組・徳本組組員が、大阪キタにある溝口組の賭場で起こしたトラブルが発端とされる。
    この佐々木組と溝口組の衝突は、一旦は和解しかけたが決裂。
  • 1975年8月23日、松田組幹部に自宅に銃弾が打ち込まれた直後、山口組本部に銃撃が行われたことで、大阪周辺の山口組勢力も参戦する結果となった。
  • 1975年9月3日、山口組系中西組組員が、松田組系村田組の大日本正義団組員に射殺された。
    この混乱に山口組組長・田岡一雄は傘下組織に自重するよう厳命した。

日本橋事件

  • 1976年10月3日、抗争は一時沈静化していたが、大阪日本橋筋商店街で大日本正義団会長・吉田芳弘が、待たせていた車のドアを開けようとしたところ、佐々木組組員2人が近づき拳銃を3発発砲、3発全て胸に着弾し吉田芳弘は約15分後に死亡した。
    大日本正義団組員が、逃亡する佐々木組組員を追跡し発砲したが、命中せず警察に逮捕された。
    白昼の繁華街の発砲事件は、社会に大きな反響をもたらした。
    前年に3名の死者を出した佐々木組からの報復であった。
    すぐに松田組から報復が行われると警戒されたが、その後、双方共に動きなく、山口組と松田組の対立は深まったまま冷戦状態となり1年以上の時が過ぎた。

ベラミ事件

  • 1978年7月11日、三代目山口組組長・田岡一雄は京都市太秦の東映撮影所を訪れた帰り、京阪三条駅前のクラブ「ベラミ」に5人で訪れた。
  • 同日午後9時半頃、田岡一雄が「ベラミ」に時々訪れるという情報を事前に掴み、1ヶ月ほど前から待ち伏せしていた大日本正義団幹部・鳴海清が、約4mの距離から田岡一雄に向けて拳銃を2発発射。
    銃弾は田岡一雄の首を貫通し、奇跡的に一命取り留めたが、流れ弾が付近にいた無関係の医師2人は重軽傷を負わせた。当時、店内には50人ほどの客と従業員がいたとされる。
  • 巨大組織となっていた山口組組長の命が狙われ、流れ弾で無関係な医師2人が重傷を負った事件は社会に大きな衝撃を与えた。
  • 報復は直ちに開始され、事件後数時間のうちに敵対組織に銃弾が撃ち込まれる事件が発生した。

山口組の報復と大阪戦争終結

  • 「ベラミ事件」は山口組若頭・山本健一の怒りに火を付けた。
    報復は山本健一率いる山健組を中心に、宅見組などが参戦。鳴海清を追跡する一方で、山本健一は容赦のない攻撃指令を出した。
  • 1978年8月17日から10月24日にかけて、公衆浴場や松田組幹部の自宅、路上といった場所でも無差別に松田組系組員を襲撃し、7人以上を射殺した。
  • 1978年9月17日、田岡一雄を襲撃した鳴海清は、六甲山山中で激しい暴行を受けたことが明らかな状態の他殺体で発見された。
  • 1978年11月1日、松田組との手打ちさえ望まない山本健一は、報道陣を神戸の田岡邸に招き、一方的に抗争終結を宣言。
    松田組も終結宣言を大阪府警に提出し「大阪戦争」は終結した。

大阪戦争終結後

  • 松田組は「松田連合」に改称し、組織再編を画策したが、傘下組織が相次いで離脱し勢力は激減。
  • 1983年5月25日、松田連合は解散した。
  • 大日本正義団は波谷組の傘下として存続。
  • 1990年6月28日、山口組波谷組の抗争「山波抗争」の勃発により、事実上、波谷組は解体。
  • 1990年12月11日、大日本正義団三代目会長・石川明は、波谷組から脱退し、大日本正義団を解散させた。
  • この「大阪戦争」における松田組への襲撃事件の実行犯及び首謀者の多くは、長期刑で服役し「山一抗争」終結後に出所、五代目山口組組長・渡辺芳則の元で幹部に抜擢されていった。
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