主な施設【中野会】
- 本部事務所:大阪府大阪市天王寺区生玉町12-6
- 本家:京都府八幡市八幡福禄谷9-5
- 旧本部:神戸市須磨区寺田町2-1-9
来歴【中野会】
山口組時代
- 1936年、中野太郎が大分県日出市に出生。
- 1960年頃、九州から大阪に移り、名和組を経て三代目山口組・山健組に加入。
- 1970年、渡辺芳則が山健組内に健竜会を結成すると、相談役に就任。
- 1989年、五代目山口組発足に伴い山口組若中に昇格。
- 1990年、五代目山口組若頭に就任。
- 1996年7月10日、京都府八幡市の理髪店で、散髪中だった中野太郎が会津小鉄会系の組員に銃撃された。
中野太郎のボディガードが拳銃で応戦し、会津小鉄会系組員2人を射殺。中野太郎は無傷だった。
同日、図越利次ら会津小鉄会最高幹部が、山口組本部を訪れ、会津小鉄会系組員が、中野太郎を襲撃したことを詫びた。
五代目山口組若頭・宅見勝は、図越利次らの謝罪を受け入れ、中野太郎と協議することなく和解した。
中野太郎は当事者である自身の承諾なしに会津小鉄会と和解したことに不満を抱き、宅見勝と激しく対立した。
(「中野会会長襲撃事件」を参照)
宅見若頭射殺事件
- 1997年7月、中野会若頭補佐・吉野和利が指揮を執り、東京都と大阪府の中野会傘下組織から、宅見勝の動向を探る偵察部隊と襲撃部隊をそれぞれ選抜。
- 1997年8月28日午後3時20分頃、宅見勝は五代目山口組総本部長・岸本才三(後に最高顧問)と、副本部長・野上哲男(後に最高顧問)と共に、新神戸オリエンタルホテルのティーラウンジの一番奥まったテーブルに着いた。その直後、中野会傘下の襲撃部隊が宅見勝を銃撃。
宅見勝は38口径と45口径の拳銃で計7発の銃弾を受け、救急車で神戸市立中央病院に搬送されたが、約1時間後の午後4時32分に同病院で死亡した。 - 事件当時、隣のテーブルに座っていた一般人の歯科医師の男性が、流れ弾に当たって重傷を負った。同席していた岸本才三・野上哲男は無事だった。
- 事件から3日後、中野太郎は宅見勝射殺事件により山口組から破門。
- 1997年9月3日、巻き添えとなった歯科医師が死亡したことで、絶縁処分となる。中野太郎はこの処分を不服とし、中野会を解散せずに独立組織となった。
(「宅見若頭射殺事件」を参照)
独立後
- 中野太郎は配下の組員に対し、中野会残留か、他の山口組傘下組織へ移籍するかの判断は各々に委ねるとした。中野会組員は、山健組などの他組織へ大量に移籍した。
- 山口組執行部は中野会への攻撃を厳禁とし傘下組織へ通達。
(親を殺害された宅見組及び天野組などの「宅見一門」は報復行動が例外的にある程度許容された) - 中野会本部事務所を神戸市須磨区から大阪市天王寺区生玉町に移転。
- 1998年7月6日、在日韓国人であった若頭補佐・吉野和利は、韓国の高級住宅街にある豪邸で家族と共に潜伏していたが、ソウルで変死体となって発見された。
吉野和利の遺体からは内臓や脳が全て摘出されており、さらに血液も全て抜かれていた。
薬物による中毒死の可能性が状況的にも強く示唆されており、毒殺の可能性が高いという。 - 1999年7月1日、大阪府公安委員会が独立組織として中野会を指定暴力団に指定。
- 1999年9月1日、中野会若頭・山下重夫が大阪市生野区内の麻雀店で、宅見組若頭補佐・西野保ら4人によって射殺された。
中野会は山口組から度重なる攻撃を受けたが、中野太郎は報復を禁止、一度も山口組へ報復することはなかった。 - 2002年4月、中野会副会長・弘田憲二が天野組・山下哲生組員により沖縄県那覇市内で射殺された。山下哲生は単独で計画し、大金星をあげた。
- 2003年、中野太郎が脳梗塞で倒れる。
- 2005年8月7日、中野会は山口組からの絶縁以降、8年にわたり独立組織として存在していたが、六代目山口組発足に伴い、寺岡修や竹中武らの説得もあり大阪府警に解散届を提出。中野会を解散し、中野太郎は引退した。
組織図【中野会】
- 会長:中野太郎
- 会長代行:安部重徳(安部組組長)
- 副会長:弘田憲二(弘田組組長)
- 若頭:山下重夫(山重組組長)
- 本部長:近藤大恵(徳心会会長)

【六代目山口組】二次団体一覧/日本ヤクザ・暴力団(2023年10月更新)
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