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概要【五代目工藤會】
五代目工藤會(くどうかい)は福岡県北九州市小倉北区宇佐町1-8-8に本部を置く、特定危険指定暴力団。親睦団体・四社会に加盟。
代紋

主な施設【五代目工藤會】
- 総裁本家:福岡県北九州市小倉北区熊谷4-19-15
- 会長本家:福岡県北九州市戸畑区菅原1-2-23
本部事務所の経緯
- 1971年(昭和46年)、北九州市小倉北区神岳1-1-12に鉄骨4階建ての本部事務所「工藤会館」を建設。
- 2000年(平成12年)1月、北九州市小倉南区上貫の事務所を購入。門には「四代目工藤会長野会館」の看板を掲げる。
新たな事務所の開設に対して地元住民らの暴力団追放運動が強化されたところ、同年3月に暴追運動のリーダー宅に銃弾が撃ち込まれる事件が発生した。 - 2011年(平成23年)2月、工藤会が長野会館を北九州市の医療法人へ売却。
- 2018年(平成30年)12月20日、北九州市が本部事務所の固定資産税(総額約800万円)の滞納を理由に、地方税法に基づき、本部事務所を差し押さえた。
- 2019年(令和1年)11月12日、工藤會側が公益財団法人・福岡県暴力追放運動推進センターを介し、福岡県内のNPO法人に約1億円で売却する契約を結び、撤去が正式に決定。
工藤會本部事務所・工藤会館の解体工事に着手。 - 2020年(令和2年)2月18日、工藤會本部事務所の解体工事が完了。福岡県公安委員会は、暴力団対策法に基づく同事務所への使用制限命令を解除。
事務所跡地は、公益財団法人・福岡県暴力追放運動推進センターに引き渡された後、福岡県北九州市のNPO法人が買い取り、福祉施設に整備された。
売却金は約1億円で、解体費などを差し引いた約4000万円は、2012年(平成24年)の元福岡県警警部銃撃事件と、2014年(平成26年)の歯科医師死刺傷事件の被害者への賠償に充てられた。 - 2020年(令和2年)6月3日、福岡県公安委員会が、工藤會傘下・二代目矢坂組(北九州市小倉北区三郎丸3)の事務所を工藤會の新たな拠点として認定し、官報で公示。
暴力団対策法に基づき使用制限命令を発令。
二代目矢坂組組長・山本和義は、事務所の売却の意向を示す。 - 2021年(令和3年)7月2日、福岡県警が二代目矢坂組事務所の土地と建物が民間のコンサルタント会社に売却されたことに伴い、所有権が移転したことを確認。
建物内も撤去が確認されたため、組員の出入りを禁止する「使用制限命令」を解除。 - 2021年(令和3年)7月9日、工藤會幹部の会合が行われたことなど、新たな活動拠点として認められるとして、田中組事務所に「使用制限命令」を発令。
来歴【五代目工藤會】
工藤組
- 前身は戦前の小倉に結成された工藤玄治を組長とする博徒組織「工藤組」。
- 工藤玄治は1910年(明治43年)生まれ、福岡県行橋市の出身。
16歳頃から西日本各地の賭場に出入りする博徒であったが、恩義があった親分が引退すると、自身で「工藤組」を名乗って渡世を開始 - ただ一人の子分で後に二代目となる草野高明、工藤玄治の姐と合わせて3人だけで四畳半一間からスタートしたとされ、終戦後の1946年(昭和21年)頃に正式に「工藤組」を旗揚げした。
- 工藤組は小倉競輪場の警備を任されることとなった。当時は公営ギャンブルが再開して盛り上がってきた頃で、利用客が増えてトラブルが頻発していたため、ヤクザに警備を担わせることがあった。小倉競輪場の警備を担ったことで、若頭・草野高明の配下に若い衆が増え、工藤組勢力は拡大。
- 1950年代には工藤玄治は草野高明を引き連れ、後に稲川会総裁となる稲川聖城が神奈川県で開いた大規模な賭場に顔を出すなど、他組織との交流も深める。
三代目山口組との抗争
- 1950年(昭和25年)、若松市の暴力団・梶原組の組員が工藤組系草野組組長・草野高明の弟を刺殺する、という事件が勃発。
この事件では梶原組と草野組は和解せず、その後も対立が続く。 - 1963年(昭和38年)5月、三代目山口組若頭・地道行雄は梶原組と安藤組に盃を下ろし、地道組傘下に収め、同年7月には北九州市の長畠組も傘下に収める。
- 1963年(昭和38年)9月10日、三代目山口組若頭補佐・菅谷政雄組長が、北九州市小倉区に「芦原興行社」を設立し、北九州に侵攻を開始。
- 梶原国広(後に射殺された元漁協組合長の縁戚)は地道行雄を通して、北九州市での力道山のプロレス興行の実施を三代目山口組組長・田岡一雄に依頼(田岡は日本プロレス協会副会長)し、田岡一雄は即座にこれを了承。
これを知った草野高明が、梶原国弘への対抗心から、北九州市内での歌手・北原謙二の公演開催を決定。 - 1963年(昭和38年)10月1日、草野高明の企画した「北原謙二ショー」が開催されるが、閉園後にショーの警備要員として応援に来ていた石松組組員が、梶原組組員に銃撃され、重傷を負う事件が発生。
この時、福岡県警は700人の警察官を動員し、梶原組と草野組の抗争に備え警戒に当たった。
この銃撃事件を直接のきっかけとし、1963年12月8日、工藤組組員らが山口組系組員らを河原で撲殺した、いわゆる紫川事件が発生。 - 1963年(昭和38年)12月24日、別府市で山口組と工藤組の手打ち式が執り行われる。
- 1979年(昭和54年)頃から、工藤組と草野一家の間で衝突が起こるようになる。
この頃、草野一家の組員は200人以上在籍し、工藤組よりも勢力は完全に上回っていた。
工藤組と草野一家の抗争
- 1966年(昭和41年)、草野高明は紫川事件の判決が出る前の未決勾留中に「工藤組脱退と草野組解散」を表明。
この表明は工藤組に警察の取り締まりが及ばないように配慮したものであったが、帰りを待っていた工藤玄治は、話を聞かされていなかったため、裏切り行為だと思い、若頭・草野高明を破門。 - 1970年(昭和45年)、「工藤組」を「工藤会」に改称。
- 1977年(昭和52)5月、元若頭・草野高明が長期の服役を終え、出所。
出所の際は、無断で脱退していたため工藤組からの出迎えはなく、対立していたはずの三代目山口組組長・田岡一雄が高知まで出向き、出所祝いの宴を主催した。
草野高明は山口組への加入を持ちかけられ、加入はしなかったものの山口組との距離は縮まり、親を山口組とした。 - 1978年(昭和53年)10月頃、草野高明は二代目松本組組長・竹田辰一の取り持ちにより、小倉北区で「草野一家」を立ち上げ、独立組織として再出発した。
草野一家立ち上げの際、草野高明は竹田辰一と共に工藤玄治と会談し、工藤玄治は工藤組の縄張りに進出しないことと、シノギは賭博のみ行うことを条件とし、草野一家の発足を許可。
草野一家は発足後すぐに急速に勢力を拡大させていった。 - 1978年(昭和53年)12月、草野一家田川支部長・天野義孝と、愚連隊・溝下組を率いていた溝下秀男が盃を交わし、草野一家に加入。
溝下秀男は草野一家の勢力拡大の大きな原動力となった。 - 1979年(昭和54年)12月1日、筑紫野市内にて、草野高明は三代目山口組二次団体・伊豆組組長・伊豆健児と五分の兄弟盃を交わし、三代目山口組と関係を深めた。
工藤玄治をはじめ、九州全域の親分衆が出席し、工藤会の最高幹部たちが出席した中、「敵の山口組と縁を持つんに、なし祝わにゃいけんのや?」と工藤会若頭・田中新太郎のみ血縁式を欠席した。
親分の工藤玄治が出席している中、田中新太郎のみが反発し、親分の顔に泥を塗るばかりか、非礼を欠くこととなった。 - 1980年(昭和55年)、愛人宅に居た田中組組長・田中新太郎が、草野一家・極政会組員2人によって射殺される。
総長・草野高明の血縁式を欠席したことに対する反発と見られ、抗争は激化の一途を辿った。 - 1981年(昭和56年)2月4日未明、北九州市小倉の堺町にあるクラブ「美松」を出た前で、草野一家若頭・大東亜会会長・佐古野繁樹と、工藤会理事長・矢坂組組長・矢坂顕が偶然鉢合わせし、口論の末、双方が拳銃を乱射、激しい銃撃戦となる。
佐古野繁樹は矢坂組組員に撃たれ倒れながらも、2メートル程度の至近距離から矢坂顕を銃撃。
二人共全弾撃ち尽くし、その場で佐古野繁樹と矢坂顕の両名は出血多量で絶命。
この「堺町事件」から工藤会と草野一家の抗争は泥沼化し、1981年2月だけでも6件もの発砲事件が発生。 - 1981年(昭和56年)、工藤会と草野一家は激しい抗争を続けていたものの、稲川会会長・稲川聖城の仲裁により、小倉北区の妙見会館にて手打ち式が行われ、和解。
- 1986年(昭和61年)2月、稲川会会長・稲川聖城が仲介した手打ちからわずか5年後、小倉北区の高級クラブにおいて、草野一家総長代行・新井秀夫他7名と、工藤会二代目矢坂組組長・山本和義他8名らが互いに拳銃を乱射する事件が発生。
この乱射により、双方2名が重傷を負い、矢坂組組長・山本和義は殺人未遂で懲役10年、矢坂組組員・柳井亮嗣は懲役7年の実刑判決を受ける。
このとき草野一家にはお咎めなしであった。
その余波で、草野一家幹部が相次いで射殺される事件が起こるが、襲撃したのはいずれも草野一家傘下の極政会系組員だったため、極政会会長・溝下秀男は、草野一家を更迭され、謹慎処分となった。 - 1986年(昭和61年)、野村悟が田中組三代目組長を襲名。
和解と再統合
- 1981年(昭和56年)、工藤会と草野一家は激しい抗争を続けていたものの、稲川会会長・稲川聖城の仲裁により、小倉北区の妙見会館にて手打ち式が行われ、和解。
- 1983年(昭和58年)5月、田中組組長・田中新太郎襲撃事件で服役していた草野一家・上原組組長・上原且久が福岡刑務所を出所。
- 1983年(昭和58年)、道仁会会長・古賀磯次の仲介で、草野一家・上原且久と、二代目田中組若頭・野村悟の手打ち式が小倉ホテルで行われた。
手打ち式には、工藤玄治、草野高明ら多数が出席した。 - 1987年(昭和62年)6月、工藤会と草野一家が再統合し、名称を「工藤連合草野一家」と改称。
- 工藤玄治が総裁に、草野高明が総長に就任。
総長代行・新井秀夫(草野一家総長代行)、若頭・溝下秀男(草野一家若頭)、本部長・野村悟(工藤会理事長)など、草野一家が重要ポストを占め、代紋は旧草野一家のものを使用。 - 工藤会9団体206名、草野一家26団体628名の、合計35団体834名という九州一の大組織が誕生。
工藤會
- 1990年(平成2年)12月、溝下秀男が工藤連合草野一家の二代目総長を継承。工藤玄治は名誉総裁に、草野高明は総長に就任。
- 1991年(平成3年)4月、草野高明が死去。
- 1992年(平成4年)、暴力団対策法に基づく指定暴力団に指定される。
- 1996年(平成8年)、工藤玄治が死去。
- 1999年(平成11年)1月、「二代目工藤連合草野一家」から「三代目工藤會」に改称。初代を工藤玄治、二代目を草野高明と改めた。
- 2000年(平成12年)1月、溝下秀男は三代目田中組組長・野村悟に、「これだけにした組織や。誰が見込みのない奴に譲れるかいな。俺が見込んだ男やないか。」と四代目を野村悟に禅譲。
野村悟は「歳が同じですし、永遠に親分について行くつもりだったから困ったな。」と言いつつもこれを承諾し、工藤會の四代目を継承。 - 2003年(平成15年)8月、暴力団追放の旗振り役だった男性が経営するクラブに工藤會組員が手榴弾を投げ込み、12人が重軽傷を負う事件が発生。
- 2008年(平成20年)7月、溝下秀男が死去。
- 2008年(平成20年)7月、溝下秀男の側近組長が相次いで銃撃を受け殺害され、篠崎一雄組長射殺事件・末松勝巳組長射殺事件・江藤允政元組長射殺事件が発生。
実行犯は工藤會四代目・田中組が、いわゆる溝下派への粛清と今後への威嚇と警察は判断している。 - 2011年(平成23年)7月、工藤會の五代目を四代目田中組組長・田上文雄が継承し、野村悟は五代目工藤會の総裁に就任。
- 2014年(平成26年)4月、工藤會総務委員長である山中政吉が、警察官から職務質問を受けた際に激昂し、ズボンと下着を脱いで下半身を露出させた。
山中政吉はこの件で逮捕されるかもしれないと警戒し、組織の資金管理に関する「引き継ぎメモ」を作成したとされる。
福岡県警は後に、幹部である山中政吉を県迷惑防止条例(卑猥な行為)違反容疑で逮捕し、別事件の家宅捜索でこのメモも押収した。
工藤會の上納金を巡り、野村悟が所得税法違反に問われた事件=実刑判決が確定=での有力な証拠となった。 - 2014年(平成26年)9月11日、総裁である野村悟が、北九州元漁協組合長射殺事件に関する殺人容疑などで福岡県警に逮捕される。
- 2015年(平成27年)8月13日、北九州市小倉北区でスナックなどが入居する2つのビルが連続で放火された事件で、工藤會の組織的な犯行である疑いが強まったとして、理事長・菊地敬吾ら五代目田中組系組員11人が逮捕される。
- 2014年(平成26年)9月13日、会長・田上文雄が殺人容疑で逮捕される。
- 2016年2月、福岡県警にて全国初、足を洗った暴力団員のための社会復帰対策係を設置し、現在まで100名以上が就労することに成功している。今後も見届ける方針、との発表。
工藤會による一般企業や市民襲撃事件
一般企業や市民襲撃事件
- 1998年2月18日、福岡県北九州市小倉北区古船場町の路上で、元脇之浦漁業協同組合(現・北九州市漁業協同組合脇之浦地区)組合長に、拳銃を至近距離から発砲し、4発を命中させ射殺。
「港湾整備公共事業への利権介入を断られたことへの報復」とみられる。 - 2000年(平成12年)6月から8月までに、衆議院議員・安倍晋三氏の自宅や後援会事務所など、いずれも下関市内で火炎瓶を使った以下の5件の事件が連続発生。工藤會系組長や組員らを逮捕。
①6月14日、工藤会系組員が安倍晋三氏の後援会事務所と間違えて、下関市内の結婚式場に火炎瓶が投げ込まれた。
②6月17日、山口県下関市にある安倍晋三氏の自宅車庫に火炎瓶が投げ込まれ、乗用車3台が全半焼。
③6月28日、安倍晋三後援会事務所に火炎瓶が投げ込まれ、窓ガラスを破損。
④8月14日、安倍晋三後援会事務所に火炎瓶が投げ込まれ、窓ガラスを破損。
⑤8月14日、安倍晋三氏の自宅車庫に火炎瓶が投げ込まれ、車の一部を破損。
すべての事件で火炎瓶が使用されたが、実際に発火したのは②だけであった。 - 2002年(平成14年)4月から2003年(平成15年)9月、暴力団排除運動のリーダー的存在で、暴力団監視員などを務めた男性が経営する高級クラブなどで、以下の事件が発生。工藤會系組員らを逮捕。
①2002年(平成14年)4月、男性が経営する小倉北区鍛冶町の高級クラブ「ぼおるど」の店内に、糞尿が撒かれる事件が発生。
②2003年5月、高級クラブ「ぼおるど」の支配人が帰宅途中、小倉北区内のコンビニ前で何者かに襲われ、胸を刺される事件が発生。
③2003年(平成15年)8月18日、「ぼおるど」系列店、「倶楽部ぼおるど」(経営者は同じ)の店内に、攻撃型手榴弾が投げ込まれ、爆発で女性従業員ら12名もの重軽傷者が出た。奇跡的に被害者側に死者は出なかったが、実行犯の工藤會・田中組組員は現場において「倶楽部ぼおるど」の従業員らに取り押さえられた際の胸部圧迫が原因で死亡。
④2003年(平成15年)9月、「倶楽部ぼおるど」に拳銃の実弾入り脅迫状が届いた。その3日後「倶楽部ぼおるど」は閉店、高級クラブ「ぼおるど」も2004年に廃業。ぼおるどの経営者は、暴力追放を目指す団体の役員を熱心に務め、組員の入店を拒否するなど、地域の暴力団追放運動の象徴的存在であったため、執拗に攻撃されたという。 - 2004年(平成16年)1月25日、北九州市小倉南区で北九州市議会議長宅に拳銃弾3発が撃ち込まれる事件が発生。
- 2004年(平成16年)4月18日、小倉北区のパチンコ店経営者宅に拳銃弾が撃ち込まれる事件が発生。
- 2004年(平成16年)5月21日、小倉北区で福岡県議会議員の自宅に拳銃弾が撃ち込まれる事件が発生。
- 2004年(平成16年)6月22日、小倉南区の建設会社に拳銃弾が撃ち込まれる事件が発生。
- 2004年(平成16年)6月27日、小倉北区のゼネコン北九州営業所に拳銃弾が撃ち込まれる事件が発生。
- 2004年(平成16年)6月28日、小倉北区の洋服店に拳銃弾が撃ち込まれる事件が発生。
- 2004年(平成16年)9月1日、戸畑区内の大手物流会社支点に拳銃弾が撃ち込まれる事件が発生。
- 2006年(平成18年)7月、小倉北区で大手建設会社の九州支店に対する銃撃事件が起こると、2007年2月までに建設業者や工事現場8件の銃撃事件と2件の放火事件が発生。
- 2007年(平成19年)11月、トヨタ自動車九州小倉工場内にある清水建設の現場事務所への放火事件が発生。
その2週間後に、八幡西区で同じく清水建設の現場事務所に銃弾が撃ち込まれる事件が発生。
さらに2週間後、福岡市東区で清水建設関連の会社事務所への発砲事件が発生。 - 2007年(平成19年)12月、八幡西区で不動産業者の自宅への発砲事件が発生。同日、小倉北区で建設会社社長が何者かに刺され、翌年1月に死亡。
- 2011年(平成23年)2月、北九州市のゼネコン清水建設の社員が工藤會系組員に銃撃され、負傷。
- 2011年(平成23年)11月26日午後9時頃、建設会社「博新建設」会長が射殺される事件が発生。後に工藤會系瓜田組組長・瓜田太ら12人を逮捕。
- 2011年(平成23年)3月、福岡市の九州電力会長宅、西部ガス社長宅で手榴弾が投げ込まれ、爆発する事件が発生。
- 2011年(平成23年)5月、北九州市の肉料理店兼住宅に発砲、店主の長男が負傷する事件が発生。
同月、佐賀県鳥栖市の九電工営業所に火炎瓶が投げ込まれる事件が発生。 - 2011年(平成23年)6月、福岡県柳川市の解体業会社事務所に火炎瓶が投げ込まれる事件が発生。
- 2011年(平成23年)9月、福岡県直方市の建設会社役員の車に弾痕が見つかった。
- 2011年(平成23年)11月、北九州市で建設会社社長が射殺される事件が発生。
- 2012年(平成24年)1月、福岡県中間市で、建設会社社長が銃撃され、重傷を負う。
- 2012年(平成24年)9月7日、北九州市小倉北区のマンション前で、タクシーから降りた直後のスナックのママの頭を刃物で切り付けて重傷を負わせる事件が発生。助けに入ったタクシーの男性運転手も手や首を切られ、大けがを負った。被害女性の経営する店は暴力団排除を示す「標章」を掲げていた。
2012年(平成24年)8月の標章制度施行後、わずか4ヶ月間で、飲食店経営者らへの襲撃や店の入るビルなどへの放火事件が計10件相次いだ。 - 2013年(平成25年)、野村悟が受けた局部の増大手術と周辺の脱毛手術に不満を持ち、一般患者と同じ態度で接した女性看護師に一方的に怒りを募らせ、女性看護師が顔などを刃物で刺され重傷を負った。
後に、実行犯の工藤會・田中組幹部・大石薫、送迎役の田中組幹部・中田好信らを逮捕。 - 2013年(平成25年)12月、1998年に射殺された元脇之浦漁業協同組合組合長の実弟で、当時北九州市漁業組合長だった男性が射殺される。
- 2014年(平成26年)5月、1998年に射殺された元脇之浦漁業協同組合組合長の孫である歯科医師が、腹や胸などを刃物で刺され重傷を負った。
警察関係者への襲撃事件
- 1988年(昭和63年)3月、退職直後の暴力団担当警部宅への放火事件。
- 2002年(平成14年)8月、北九州市小倉北区にある警察官舎に駐車中の車に爆発物が仕掛けられた。
いずれも工藤會系幹部と、全身組織の組長らが逮捕。 - 2012年(平成24年)4月19日朝、勤務先の病院に向かう途中の警察官OBが銃撃され、瀕死の重傷を負った。
銃撃された警察官OBは、工藤會対策の特別捜査班長として勤務し、多くの事件を摘発した功労者であった。
後に実行犯の工藤會・田中組幹部・中田好信らを逮捕。
系譜【工藤會】
「工藤會」
- 初代:工藤玄治(工藤組初代組長・工藤会初代会長)
- 二代目:草野高明(草野組初代組長・草野一家初代総長)
- 三代目:溝下秀男(溝下組初代組長・極政会初代会長)
- 四代目:野村悟(三代目田中組組長)
- 五代目:田上文雄(四代目田中組組長)
組織図【五代目工藤會】
総裁
- 総裁:野村悟
会長
- 田上文雄
最高幹部
- 理事長:菊池啓吾(五代目田中組組長)
- 舎弟頭:長谷川泰三(長谷川組組長)
- 総本部長:石田正雄(石田組組長)
- 幹事長:緒方哲徳(緒方組組長)
- 組織委員長兼渉外委員長:篭縞武志(篭縞組組長)
- 懲罰委員長:木原浩(木原組組長)
- 総務委員長:山中政吉(山中組組長)
- 事務局長:田中十四春(田中組組長)
- 理事長補佐:瓜田太(瓜田組組長)
- 理事長補佐:内蔵成喜八(四代目極政組組長)
顧問
- 最高顧問:林武男
- 顧問:添島弘之(添島組組長)
常任相談役
- 中島直人(中島組組長)
- 玉井金芳(玉井組組長)
- 緒方紀年(緒方組組長)
- 奥平政義(三代目土谷組組長)
- 松本光将(松本組組長)
- 林政美(林組組長)
- 山本和義(二代目矢坂組組長)
- 今田雄二
会長舎弟
- 本田三秀(本田組組長)
- 木村博(二代目津田組組長)
総裁秘書
- 木村政勝(木政組組長)
総裁付
- 白石孝(白石組組長)
- 大原康昭(大原組組長)
- 久保恵(久保組組長)
- 丸本竜治(丸本組組長)
- 船田茂樹(二代目木下組組長)
直若
- 山本峰貢(山本組組長)
- 山下義徳(山下組組長)
- 林孝章(五代目林組組長)
- 反田信政(反田組組長)
- 吉原聖吉(反田組組長)
- 井塚則夫(井塚組)
- 池田一男(池田組組長)
- 高野基司(高野組組長)
- 中村数年(中村組組長)
- 森隆志(二代目村上組組長)
- 三明和夫(三明組組長)
- 大原弘(四代目田口組組長)
- 武本友裕(武本組組長)
- 新屋実(新屋組組長)
- 川谷隆雄(川谷組組長)
- 福山幸一(福山組組長)
- 古本健二(古本組組長)
- 大場雅己(大場組組長)
- 小川幸司(小川組組長)
- 下川直也(下川組組長)
- 影浦壱治(影浦組組長)
- 馬場資房(馬場組組長)
- 玉田圭司(玉田組組長)