代紋

主な施設【一和会】
- 本部事務所:兵庫県神戸市中央区北長狭通3-2-3ニューグランドビル2F
- 本家:兵庫県神戸市東灘区御影山手6-3-23
略歴【一和会】
- 1984年6月、山口組四代目跡目問題で山本広擁立に関わった側が、竹中正久四代目継承を機に山口組を脱退。山本広を会長として一和会を結成。
代紋は鎖に二つ組み巴とし、鎖の数は22で、当初一和会に参画予定であった山口組の直参組長の人数であると言われている。
分裂当初は7,000人の勢力があり、6,000人の山口組より数の面で優勢だったが、山口組側の切り崩しによって次第に劣勢に立たされていった。
武闘派・竹中正久四代目の怒涛の攻撃を前にして一和会は徐々に弱体化したが、密かに竹中正久暗殺を計画。
1984年9月には暗殺部隊を結成し、竹中正久行きつけのマンションに部屋を借りるなど周到な準備を行った。 - 1985年1月26日、一和会常任理事・悟道連合会会長・石川裕雄が指揮し、一和会系二代目山広組若頭・後藤栄治、同組行動隊長・長野修一、実行犯の同組員・長尾直美、田辺豊記、立花和夫により、収監前の竹中正久を襲撃した。
神戸の山口組新本部の上棟式後、大阪府吹田市マンション「GSハイム第二江坂」の1階エレベーター前で竹中正久を銃撃。
四代目山口組組長・竹中正久、山口組若頭・豪友会会長の中山勝正、警備役の南組組長・南力が銃撃され、中山勝正は4時間後に死亡、南力は即死、竹中正久は大阪警察病院で翌27日に死亡した。
山口組はトップとナンバー2を失う事態となり、これが山口組側からの激しい報復を招くことになった。 - 1988年5月、一和会副会長兼理事長・加茂田重政が引退、加茂田組を解散した。
一和会会長・山本広宅に爆発物を用いた攻撃などもあり、その後数ヶ月のうちに最高幹部のほとんどが一和会を脱退するに至った。 - 1989年3月19日、山本広は神戸市の東灘警察署に出頭、自身のヤクザからの引退と一和会解散を表明し、一和会は消滅した。
- 1989年3月30日、山本広自身が稲川会本部長・稲川裕紘に付き添われて山口組本家を訪れて謝罪。
山一抗争は終結した。結果として山一抗争では山口組側に死者8人、負傷者17人、一和会側に死者17人、負傷者49人を出した。

【六代目山口組】来歴・系譜・施設・組織図まとめ/日本ヤクザ・暴力団(2023年10月更新)
概要【六代目山口組】
六代目山口組(やまぐちぐみ)は兵庫県神戸市灘区篠原本町4-3-1に本部を置く特定抗争指定暴力団。
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組織図【一和会】
常任理事
- 加茂田勲武(政勇会会長)
- 中村清
- 片山三郎
- 西林健二(西林組組長)
- 石川裕雄(悟道連合会会長)
事務局長
- 末次正宏

【六代目山口組】二次団体一覧/日本ヤクザ・暴力団(2023年10月更新)
【六代目山口組】二次団体
茶谷政一家(北海道)
二代目旭導会(北海道)
四代目誠友会(北海道)
七代目...